1962年大阪府生まれ。
立命館大学法学部卒業後、医療機関勤務を経て1988年より2年間イスラエルの集団農場“キブツ”でボランティア活動に従事。
帰国後、学習塾講師を務めながら龍谷大学大学院経済学研究科修士課程でロシア経済論を研究。
在学中の1996年、交換留学制度でウクライナの国立キエフ大学に1年間留学。
2002年~2004年、ロシア連邦ムルマンスク市で日本語教師として教鞭をとる。
帰国後は日本語教師や学習塾教師として働く傍ら、ロシア語通訳、翻訳士として国際交流イベントの場などで活躍。
2011年、主に旧ソ連圏向けの国際友好団体「クロスロシアン」を設立。同時にロシア語教室を開講し、今日に至る。ロシア語圏への留学や現地企業での就労、人々との交流などを通じ培ったロシア語力やロシア語圏における生活感覚に定評がある。
小学生~中学生時代にボクシングを経験。趣味はスポーツ観戦。
<受賞歴>
・2000年「関西ロシア語コンクール」上級部門2位入賞
・同コンクール 在大阪ロシア連邦総領事館賞2度受賞(2001年・2013年)
・2010年「全国ロシア語コンクール」特別賞受賞
など
※インタビュー:徳橋功(My Eyes Tokyo編集長)
私は大阪市内のコリアタウンのそばで生まれました。 幼稚園入園前、自宅の周辺には韓国・朝鮮にルーツを持つ子どもたちが多くいたことを覚えています。
偶然にも生まれながらにして多様性に富んだ環境に育ち、しかもこれまで旧ソ連諸国やイスラエルをはじめ20か国を超える国々に行き、滞在してきました。
そんな私は、実は家族の中ではある意味“浮いた”存在。スポーツ用品会社勤務の父はタイと韓国を旅行した程度だったし、高校教師の母や、すでに嫁いで行った妹は海外に一度も行ったことがないほど。そのような家族環境で、日本の外のことを最初に私に教えてくれたのは祖母でした。
かつて女学校で高等教育を受け、商社に勤務した経験を持つ祖母は、子どもだった私にクッキーを買ってきては、その缶の蓋に貼られていたロンドンのビッグベンを指差し「大きくなったらこういうところに行きなさい」と私によく言ったものでした。私も不思議とその風景に惹かれました。
海外に興味を持った私は、親が買ってくれた世界地図を眺めては、祖母が教えてくれたイギリス、他にもいろいろな国々に思いを馳せていました。
しかし幼心に最も目を引かれたのは、日本の北に広がる超巨大な領土を持つ国 – そう、当時の旧ソ連です。もちろん当時の私には、やがてこの国の言語を学び、実際に住むことになるなど、想像すらしていませんでしたが、その後あることをきっかけに、おぼろげに抱いていた関心が「この目で見てみたい!」という思いに変わったのです。
中学校に入学し、生まれて初めて出会った外国語である英語に惹かれ、流暢に話す“カッコいい”自分を想像しながら勉学に励んでいました。将来のことをあまり考えていなかった少年時代ですが、どんな時も頭から離れなかったのは“海外に行く”こと、そして“海外に住む”ことでした。しかも目的地は、もはやロンドンのビッグベンではなく、ソ連。中学1~2年ごろ、社会の授業で初めて社会主義について学んだ頃です。
ソ連は社会主義という、日本とは全く違う社会体制を持つ国 – その事実に強く惹かれました。その南に位置する中国も社会主義国でしたが、メディアで報じられた文化大革命の実態に違和感を抱いた私の眼には、ソ連の社会体制がはるかに安定しているように映ったのです。しかも時はベトナム戦争末期。ニュースを見るたび胸を痛めた私は、素人考えでアメリカは資本主義の悪玉、ソ連は社会主義の平和勢力と勝手に思い込んでいました。
ソ連の社会主義体制の力を目の当たりにしたのは、私が高校2年生の頃。モスクワオリンピック前年、プレオリンピックの開会式で繰り広げられた圧巻のマスゲーム、40平米のアパートに月2,000円で暮らせ、医療は無料で受けられるという暮らしぶりを知るや「実際に現地に行って、自分の目で確かめなければ!」という強い思いに駆られました。使命感と言っても過言ではなかったでしょう。
高校3年生の時に神戸市立外国語大学ロシア語学科を受験するも、力が及ばず不合格。目標を語学ではなく法律学に切り替えました。法律を知るためには政治や経済の知識も必要不可欠です。浪人中にNHKのテレビ・ラジオ講座でロシア語を学び始める一方、ソ連の社会体制を深く知りたいという湧き上がる思いを胸に2度目の大学受験に臨み、晴れて立命館大学法学部法律学科に入学。在学中は社会主義法や社会主義経済論などを貪るように学びながら、他にも第二外国語として東ドイツという社会主義国で話されていたドイツ語、単位にカウントされない第三外国語としてロシア語を履修しました。
さらに知識を深めようと大学院進学に向け準備していましたが不合格。仮に合格していたとしても、経済的な理由から断念せざるを得ない状況だったため、大学院をあきらめました。一方で中学時代に触れたベトナム戦争を機に「世界中の人々の役に立つ仕事をする」「誰もが幸せになれる社会を作ることに貢献する仕事をする」という壮大な目標が生まれていたものの、ひたすら大学院の進学を目指していた私には、国連や外務省などでの就職を考える余地がほとんどなく、結局就職課の勧める仕事に就くしかありませんでした。
それはある医療機関での勤務。受付や診療報酬の計算など地道な仕事に真面目に取り組みましたが、どこか“お金を貯めるために働く”という気持ちが拭えずにいました。日々の仕事に疲れ、それに反比例するように海外への夢が再び頭をもたげてきました。
オーストラリアにワーキングホリデーに行こうと思った私は、ある日書店で『国際派就職辞典』(アルク刊)という本を手に取りました。それをめくると、イスラエルの集団農場“キブツ”でのボランティア紹介記事が私の目に飛び込んできたのです。「キブツとは、社会主義体制を敷く共同体である」という説明、しかもそこでボランティアを招き入れている –
「自分の居場所を見つけた!」そう思った私はその日の夜、辞表を書きました。すぐには提出しませんでしたが、その後約半年間、辞表をポケットに入れて仕事をしていました。渡航費や現地での生活費を何とか確保し、ボランティア要員募集が始まった頃に退職。資本主義と社会主義、世界三大宗教、戦争と平和など人類の夢・希望・絶望すべてが詰まった“世界の縮図”イスラエルへと旅立ちました。
私が日本人参加者10名と共に入ったのは、イスラエル中部にあるキブツでした。ボランティアという立場でしたが、キブツ内では衣食住全て公平に分配され、少額でしたが報酬もいただいたため、自分のお金を全く使わずに生活できたほど。滞在中に頭痛や発疹、発熱を伴う風土病にかかりましたが、無料で診察してもらいました。病院以外にも、キブツには学校や郵便局、映画館まで揃っており、住民全員が平等に共同体の運営に携わるという、いわば都市全体で“理想的な社会主義”と呼べる体制を実施していたと感じられたのです。
イスラエル滞在1年目は、バナナ担ぎや畑仕事、建設など主に肉体労働をしながら、キブツ内外の人々と英語でコミュニケーションを取っていました。しかし「もっと深くイスラエルのことを知りたい」と思い、2年目にヘブライ語を学べる学校があるキブツへ。ちなみにキブツには右派と左派があり、右派は労働時間が長く休暇の日数が少ない、その分高報酬をもらえるなど、やや資本主義色が含まれていましたが、私のお気に入りは右派のキブツ。そこは規模が大きく多くの人たちが集まっていたため、単純に楽しかったのですね(笑)
キブツ内外では、ヘブライ語に交じってロシア語も毎日のように耳にしました。当時のソ連のレストロイカ体制下で、国内に住むユダヤ人がイスラエルへの帰還を許されたため、ロシア語を母語とするユダヤ人移民が雪崩れ込んできたのです。私はその1人、家族と共にキブツにやってきたという30代のユダヤ系ソ連人に英語と日本語を教え、代わりに彼からロシア語を学びました。医療機関への就職以来ロシア語から離れ、代わりに日常会話の6~7割を理解できるほどヘブライ語を習得していましたが、再びロシア語やソ連への情熱が蘇ってきたのです。
2年間のキブツ滞在を経て日本に帰国。大学生時代にアルバイトで経験があり“少ない労働時間で稼げる仕事”だと知っていた学習塾講師になりました。もともと「人々の役に立つ仕事をしたい」という願望を持っていた私にとって、最もそれが叶えられるのは、人に知識を提供する仕事。大学院進学ばかり考えていたため、学生時代には選択肢として考えなかった教育の仕事が、実は自分にとって天職なのだと思えるようになったのです。
一方その頃、ソ連崩壊のニュースが全世界を駆け巡りました。社会主義体制が崩れた背景と理由を、一度は社会主義に惹かれた私こそが解き明かさなければ・・・新たな使命感を胸に、ロシア経済研究に取り組むべく龍谷大学大学院に社会人入学。1996年、大学院のあった京都市と姉妹都市協定を結んでいたウクライナ最大の都市・キエフにある国立キエフ大学に1年間留学しました。
当初はロシア国内に行けなかったことを残念に思いました。しかし当時のウクライナはロシアと違い外国からの資本が入らず、社会主義の負の部分が改善されないまま残っていました(※“社会主義の負の部分”については西村さんが開催するセミナーをご参考ください)。だから“社会主義が崩壊した背景と理由”の研究には最高にふさわしい環境だったのです。そのうえ旧ソ連地域に長期滞在するという夢も叶い「ずっと諦めず念じていれば、その願いはいずれ叶うのだ」と確信しました。
旧ソ連で学んだら、さらに旧ソ連で仕事をしたいという欲が生まれました。帰国後に学習塾講師やロシア語通訳・翻訳者として活動しながら日本語教師の資格を取り、日本国内での日本語学習者への指導経験を積んだ頃、インターネットで偶然「日本語教師を募集!」の文字を発見。場所はモスクワから北へ2000キロ、北極圏最大の街“ムルマンスク”でした。この街には大学4年生の夏、初の海外体験だったソ連旅行で偶然訪れていたのです。当時は再びこの地に返ってくるとか、まして仕事をするなどとは夢にも思いませんでしたから、不思議な縁を感じました。「あの訪問は、今日に至る予行演習だったのでは無いか」と・・・
私が日本語教師として勤務したのは、ムルマンスク市内唯一の日本語学校でした。新設校で、しかも21世紀初頭のアニメブームの影響から主に10代~20代の学習希望者が大勢集まったため、開校時には現地の報道陣が殺到。
私も市内唯一の日本語教師として記者会見の席に列せられ、ロシア語で約1時間半、記者たちからの質問に答えました。
勤務開始後は、一度の講義で最大約80名が集まったほどの人気教師に。生徒たちの大半がひらがなさえ読めない日本語知識ゼロからのスタートでしたが、日本語能力試験4級(N4: 基本的な日本語を理解することができるレベル)を受験した16名のうち14名が合格。さらにN3(日常的な場面で使われる日本語をある程度理解することができる)合格者も1名出しました(その人は、私が日本帰国後N2の試験に合格。N2は「日常的な場面で使われる日本語の理解に加え、より幅広い場面で使われる日本語をある程度理解することができる」レベル)。そのたびに学校や私自身が、メディアに大々的に報道されました。そのような実績を出しても、給料は日本円にして月わずか4万円程度。でも現地の物価が安かったため、その半分を貯金に回すことができました。
この街始まって以来の日本人住民&日本語教師として2年間のムルマンスク生活を終え、日本に戻りました。ロシアに渡る前、家族の関係で関西を離れ東京に本拠を移していた私は、本格的に東京での教育活動を開始。
しかしひとつだけ、私が指導した経験の無いものがありました – ロシア語です。
私が数十年にわたり培った知識と経験を、できるだけ多くの人たちと共有したいという思いが、ふつふつと湧き上がってきました。東日本大震災後の2011年10月、ロシア語教育やロシア語圏出身者との交流、ロシア語圏関連セミナーを主な事業とする国際友好団体「クロスロシアン」を設立しました。
現在はコロナ禍ということもあり、ロシア語教育に全精力を集中しています。私の生徒さんの多くは、ロシア語学習の動機として“旅行”を挙げていらっしゃいます。わずかに“仕事”という方もいらっしゃり、それぞれに対しては少しだけ内容や方法を変えて指導に臨んでいます。でも初心者レベルの方に教えることは全く同じです。
初心者の方々に対しては、ロシア語ネイティブよりも、私のような“かつて初心者だった上級者”が教えた方が、絶大な効果を生むことができます。なぜなら彼らの“痛み”が分かるからです。しかも私は「ロシア語を学ぶことで人生を豊かにすることができた」という経験も持っています。
私自身、ロシア語そのものに惹かれたというよりは、社会主義政治・経済体制を敷くソ連に関心を持ったことが、ロシア語学習のきっかけでした。しかしロシア語を学ぶことで、英語だけでは交流し得ない人々に出会うことができました。
さらに言えば、私はロシア語を学ぶことで人生を“大逆転”させました。
モテた経験が全くと言って良いほど無かった私が、ロシア人女性との真剣交際に至ったのです。
私は少年時代の頃から
“世界中の人々の役に立つ仕事がしたい”
という思いを持っていました。
それは教育に携わることで叶いました。
学習塾講師として次代を担う若い人たちに、
日本語教師として世界中の日本語学習者に、
自分の持つ知識を伝えてきました。
そして今、私は同じ日本人のロシア語学習者に、私が長い間培い熟成させてきた知識や経験を伝えています。
それは全て
“目の前にいる人の願いを実現させるお手伝いをしたい”
という思いでさせていただいている、私からのささやかなプレゼントなのです。
ぜひ皆さんの“実現させたいこと”をお聞かせください。
「ロシア語圏に旅行に行ってみたい」
「ロシア語を巧みに操りビジネスできたらカッコいいよね」
「ロシア人女性と結婚できたらいいな」
どんなご希望も心からウェルカムです。